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お遍路記
四国別格二十霊場
―百八煩悩消滅の旅―
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四国別格二十霊場参拝とは、 |
| 御朱印 | おすがた | 開基・本尊・御真言 | 札所について | ||
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本尊・千手観音菩薩 開山・西範僧都、 (中興)弘法大師 御真言・オン バザラ タラマ キリク ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 徳島県板野郡上坂町大山 088-694-5525 |
大師中興遺跡 西暦500年頃、武烈継体天皇の御宇西範僧都の開基にして、阿波仏法最初の道場。弘法大師が阿波入国の砌、堂塔を整え仏王の山号を奉ち、恵果和尚より授かりし、千手千眼自在菩薩像を奉安し、四国霊場開創の根拠地とした。開運招福の寺、男女縁結びの寺として知られている。 頂上からの眺めは徳島百景の一つである。 伝統400年の力餅は七条の城主出羽守兼仲公にまつわる行事にして現存している。 (2007年6月2日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
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本尊・薬師如来 開山・行基 御真言オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 徳島県名西郡石井町城の内 088-674-0138 |
弘法大師学問所 弘法大師が幼名を童子と称していた頃、久しく滞留し、学問を修行した寺で、その所由を以って寺号としている。 弘法大師はこの寺で「いろは歌」47文字を創作し、児童等にひろく教え、日本の民衆教育の最初となり、日本文化の基礎を創ったといえる。 境内裏庭逍遥園入り口には大師が硯の水を求めたというお筆の加持水という泉があり、以来一時も水が絶える事がないという。 (2007年6月2日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | ||||
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鐘楼堂はありません |
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本尊・十一面 観世音菩薩 開山・弘法大師 御真言・オンマカ キャロニキャ ソワカ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 徳島県勝浦郡上勝町正木08854-5-0044 |
穴禅定の寺 まずは、大師堂と納経所がある。 大師堂上の駐車場から500m程の細い参道を上がると、本堂と穴禅定がある。穴禅定に入るには納経所で白衣、ろうそくを受けます 大師19歳時、世の中の人々の生活苦、病苦及び一切苦厄を除くために修行中、夢のお告げにより不思議な鍾乳洞を発見。大師、洞窟の邪気祓いのため護摩をたいて洞窟を清め、悪魔悪竜を洞窟の壁に封じ込め末代衆生のため血縁潅頂の秘法を修めた行場として崇信者が多い。僅か百m程の洞窟だが導師の言われるとおりにせねば進退窮するという心を素直にさせられる妙刹である 穴禅定 (2007年6月17日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
| 山門はありません |
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本尊・弘法大師 |
大師修法の旧跡 |
| 本堂 | 鐘楼堂 | |||
| 山門はありません |
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本尊・弘法大師 |
二ツ石大師遺跡 弘法大師四国八十八ヶ所霊場開創の砌、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬になっていた。当時は山越しに行くのを常としたが干潮の時はこの二つ石岬の端を廻っていく事ができた。ところが当時は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ、波にさらわれて海の藻屑となる者多く海難が多発ていた。大師はそのことを聞いて海岸に立つ二つの大岩の上で海難横死者の菩提のため、海上・陸上の往来安全を祈願して祈祷をおこない、一寺を建立したのが今の大師堂の起源である。誰言うともなく「二つ石のお大師さん」と呼ばれるようになったという。二つの大岩は長年の波荒でその姿をとどめていない。 ケーブルカー (2007年6月20日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | ||||
| 山門はありません |
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鐘楼堂は未改修です |
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本尊・十一面 |
四国開創発願の寺 大師が四国の各地で修行の砌、当地に立ち寄った時、僻地故に都の文化の恩恵の影薄きを憂い四国八十八ヶ所霊場の開創を発願し、大同年間にお願成就したのを記念し、ここに堂宇を建立したのがはじまりである。元和元年初代藩主 伊達秀宗入部の砌、当山を宇和島城の鬼門の鎮として、藩と領民の安泰と繁栄を守護する伊達家祈願寺と定めた。これを享けて平成2年、山頂に白亜の除災招福大観音像を中国より歓請し、万民の平和と利福を期し建立されている。一石彫としては西日本随一の大きさである。 除災招福大観音像 (2007年6月27日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
| 山門はありません |
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本尊・千手観世音菩薩 |
大師雪中修行跡 |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼 | ||||
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| (山門の中にあります) |
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本尊・弥勒菩薩 |
大師御野宿の跡 約1200年昔、弘法大師は衆生済度大願のため四国の各地を行脚し、当大洲地方も巡鍚した。 当時この地方は未開で、村落人家至って少なく且つ農繁期にて、宿るに家なく、途中に日暮れて空腹のまま一夜を小川に架けたる土橋の下に野宿し、夜の明けるのを待ちかねて一夜も十夜の長さに感じられた。かかる艱難を受けるにつけても衆生済度の念願は愈々切なるものとなり、自身の苦しみを忘れ生死の六道に行き悩む衆生をして早く信仰の橋を渡らし、速に常楽の彼岸に至らしめようと大悲の御心を、 「行きなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ」 と詠じ、久万菅生山に旅立った。 それより十夜ケ橋と言う名が起こったと伝えられています。又、遍路が橋の上を通る時、杖をつかないという風習はこの話から起こったものである 十夜ヶ橋の下 (2007年8月19日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | ||||
| 山門はありません |
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鐘楼堂はありません |
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本尊・地蔵菩薩 |
遍路開祖衛門三郎旧跡 |
| 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
| 山門はありません |
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本尊・千手観音菩薩 |
求聞持修法遺跡 |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
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本尊 地蔵菩薩 |
生木地蔵 生木地蔵(生木山正善寺)はその昔より生木のお地蔵様と呼び古されていて、その名も高く青葉しげる楠木にそのままきざまれたお地蔵様で、生木のお地蔵様と呼ばれている。弘法大師が一切衆生済度のために、この四国八十八ヶ所の霊場を開こうと山々谷々までも経巡っていた砌、当地四尾山の麓に一夜の假寝をした。その夜の事、この山に輝光を観得し暁に至っては紫雲たなびくと共に世にも目出度き楠の大木をみた。また殊勝の童子示現し霊告あり、御仏、「童子の化身を以ってわれに示し給う」と弘法大師は、三拝し、その夜この楠の大木に一刀三禮し霊刀をふるい、延命地蔵大菩薩の尊像を彫刻した、早や暁、霊水を以って閼水となし開眼の秘事も済ましてそのままこの所を立ってしまった。 これがお大師様が一夜の中に彫刻したという海内随一の生木のお地蔵様である。昭和29年9月26日洞爺丸台風の烈風にて楠の零木は根元より倒れたが、お大師様御自作のお地蔵様は倒れず、昔の姿のまま安泰である。 お楠大明神 雨乞石 (2007年8月19日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | ||||
| 山門はありません |
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鐘楼堂はありません |
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本尊・延命地蔵菩薩 |
いざり松、千枚通本坊 |
| 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | |||
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本尊・弘法大師 |
護摩修法霊跡 嵯峨天皇の弘仁6年、弘法大師が42歳の時、登山した時、金剛窟に瀧沢大権現と、開運不動尊を勧請して、息災の護摩壇を築き、朝夕「きよめの瀧」で心身を浄め「開運厄除」「虫除五穀豊穣」の二つの請願をたて、21日間護摩の修行をした。その護摩修行成満の後、自らの姿を彫刻して、この山の留め安置した。その後本尊を「厄除大師」「虫除大師」と伝え諸国より多くの信者が四季を通じ参籠している。 「六角堂」 (2007年8月24日巡礼) |
| お通夜堂 | 鐘楼堂 | ||
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| お通夜堂の中に本堂があります |
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本尊・延命地蔵菩薩 |
金剛杖病封の霊跡 平安時代初頭、弘仁6(815)年、弘法大師がこの地に立ち寄られ、持っていた椿の杖を突きたて、当時この地方に流行していた病を大地に封じ込めました。その後、この椿の杖から芽が出て大樹になったところから「椿堂」の名がついたといわれています 「お杖椿」 (2007年8月24日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼 | |||||
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本尊・金毘羅大権現 |
金毘羅奥の院 天長5年弘法大師が四国巡錫の砌、この山に金毘羅神の神託をうけ、本尊を刻み奉安し開創した。以来千有余年の法灯を継ぎ「こんぴら奥の院」として金毘羅信仰の中心をなしている。星祭り、春、秋の例大祭等数多くの法要があるが、中でも「箸供養」は全国に知られている。寺域広大、諸堂荘重の名刹。箸蔵たにの霊域の中に老木が茂り、付近一帯は県立箸蔵自然公園の指定を受けている。また四季折々の食材を用いた精進料理が一年中楽しめる。 開創以来の伝統である護摩祈祷は「箸蔵の護摩」として有名である。 重要文化財の「板戸」 (2007年6月17日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
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本尊・ 伽羅陀山火伏地蔵菩薩 開山・弘法大師 御真言・オン カカカビ サンマエイ ソワカ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 香川県観音寺市大野原町萩原 0875-54-2066 |
別格本山地蔵院 大師が四国の各地で修行の砌、当地に立ち寄った時、僻地故に都の文化の恩恵の影薄きを憂い四国八十八ヶ所霊場の開創を発願し、大同年間にお願成就したのを記念し、ここに堂宇を建立したのがはじまりである。元和元年初代藩主 伊達秀宗入部の砌、当山を宇和島城の鬼門の鎮として、藩と領民の安泰と繁栄を守護する伊達家祈願寺と定めた。これを享けて平成2年、山頂に白亜の除災招福大観音像を中国より歓請し、万民の平和と利福を期し建立されている。一石彫としては西日本随一の大きさである。 (2007年7月1日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
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本尊・薬師如来 |
満濃池大師 弘仁12年弘法大師嵯峨天皇の勅命により満濃池修築の砌、その偉功を称えて末世憐民の勝計を廻らして当寺を建て、両部の秘法を伝え満濃池鎮護の霊刹となし、大治5年座堂再建二大門営築。明徳4年堂宇再建し、益々隆盛していたが、天正9年9月戦火の時、伽藍一切を焼失し廃寺となる。昭和9年大師会の発願により古の面影を偲ぶ神野寺として堂宇の一部を再建する。満濃池堤防では、日曜・祭日かりん市が開かれ始終賑わっている。 満濃池 (2007年7月1日巡礼) |
| 本堂 | ||||
| 山門はありません |
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大師堂はありません | 鐘楼堂はありません |
| 本尊・正観音 ・弘法大師誕生佛 開山・弘法大師 御真言・オン アロリキャ ソワカ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 香川県仲多度郡多度津町白方 0877-33-3333 |
大師誕生ゆかりの地 宝亀5年(774)弘法大師の母である玉依御前(たまよりごぜん)がこの地に産屋を設けて大師を出産しました。大同2年(807)大師はこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりです。大師の誕生所が第75番善通寺で産屋が海岸寺となっています。 門を入って直ぐに安政3年(1856)再建の本坊本堂がありますが、道路を隔てて西側に奥の院があります。そこには産屋跡や奥の院大師堂があり、大師童形の御姿像、両親の佐伯公夫婦像、四天王像等が祀られています。一万トン近い巨石をとうじて築園しているまんだら園、なるほどとうなずく法句四十碑などゆっくり参拝すれば1時間以上を要す大変広大なお寺です。住職の話も格別です。 産 井 (2007年7月1日巡礼) |
| 本堂の御朱印 | 本堂のおすがた | 本堂の山門 | 本堂 | 本堂の鐘楼堂 | |||||
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| 大師堂の御朱印 | 大師堂のおすがた | 大師堂の山門 | 大師堂 | 大師堂の鐘楼 | |||||
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本尊・延命地蔵菩薩 |
大師御作地蔵尊 嵯峨天皇勅願寺 奈良時代に僧行基により開創され、初め勝賀山のふもとにあり勝賀寺といった。平安初期に僧空海(弘法大師)が再開し現地に移した。嵯峨天皇の勅願寺に選ばれて、寺禄千貫を賜り、朱雀天皇の時、談義所(僧徒学問所)に選定された。鎌倉時代、この地の豪族香西左近将監資村(香西氏の祖)が、幕命をうけ堂塔を再建し香西寺と改称す。その後細川頼之が当寺を本津(香西東町)に移し、11代香西元資は寺号を地福寺と改称す。天正年間戦火にあい、生駒親正が国守となり、再建ののち高福寺と名をかえた。満治年間、またも失火のため旧寺域(現在の地)へかえることになった。寛文9年、藩主松平頼重公が進伽藍を建立落慶し、別格本山・香西寺となる。その後当時の七堂伽藍はほとんど失火で消失し、現在の建造物はその一部分である。寺宝の毘沙門天立像(木造・檜一本造り、平安時代初期101cm)は昭和16年11月、重要文化財に指定され、藤原時代弘仁佛としては、全国的にも逸品である。 「毘沙門堂」 (2007年8月24日巡礼) |
| 山門 | 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
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本尊・西照大権現 開山・行基菩薩 御真言・南無西照 (にしてる)大権現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 徳島県美馬市脇町西大谷 0883-53-7910 |
四国八十八ヶ所総奥ノ院 求聞持修法遺跡 奈良時代(神亀3年)行基が阿讃山脈秀峰に一宇を建立し、阿陀三尊を安置した。 平安時代初期弘法大師が「求聞持修法」をし、大師42歳、2度目の登山の時に現世の男女厄難消除、万民安楽の為に西照大権現を安置し、法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修した。 その後、天保2年に聖宝尊師が男女厄除厄流の大護摩を修法し、その法が今に伝わり厄流しの寺として有名である。 (2007年6月2日巡礼) |
| 本堂 | 大師堂 | 鐘楼堂 | ||||
| 山門はありません |
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